昭和四十七年五月二十日 朝の御理解
X 御理解 第四節
この方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるよ
うになった。この方金光大神あって、神は世に出たのである。
神からも氏子からも両方の恩人はこの方金光大神である。金光大神の
言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折りには、
天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、
おかげを授けてやる。
金光大神のおかげでと思う心が、もう既に恩に報いる心だと思うです。神からも氏子からも、両方からの恩人だと、金光大神のおかげで今日の私がある、金光大神のおかげで人間が幸せになっていく道がハッキリ示された。とゆうようなふうに金光大神の私だけの金光大神でなくて、いうならば人類の為の金光大神というところまで、おかげが広がっていかねばならんと思う、言うなら世界中の氏子が金光大神あって、天地金乃神さまのおかげを受けられるようになったとゆうところまで、金光大神をまず私が頂き、又はそのおかげを周囲に広げて行くそれが、私は恩に報いる事だと思う。神からも氏子からも両方からの恩人と金光様は私の恩人だというておるだけではいけない、その恩に報いるとゆう事はそのような事だと思う。 金光大神の言う事にそむかぬようにとあります。金光大神が教えておられる事、天地金乃神さまから受けられたみ教え、又は金光大神自らが、実意丁寧神信心を貫かれて体験されたおかげの話というのを、残しておって下さった、そういう様々なみ教えを頂いて御教が身についてくるおかげを段々頂くと、ところがなかなか、そこに一つの焦点というのがなからなければいけん、金光大神の教えを頂いてどこが焦点にならなければならないか、どこを目指さしてもろうて、そのあらゆる信心の御教とゆうものが生きてくるかと。
昨日の夜の御祈念を博道先生が当番でしたから、おかげを受けとりました。昨日は西久留米教会の御大祭で若先生のお供をして、あちらえ送って参りました。それから御大祭を頂いて直ぐ石井誠之助さん所の一年の御霊祭がありましたから、それも若先生と二人で奉仕させて頂き、ほとんど終日その事で御用を頂いた訳です。
昨日、夜の御祈念を頂き終わってからのお話の中にこういう事をいっておるです、最近、私は御結界に一度は奉仕させてもらわないと、落ち着かないと、以前の私だったら御結界という所は、もう足も痛いし、きついし、出来るだけサボれるならサボつたがええという先生が、最近は日に一回はどうでも御結界に奉仕をさせて頂かないと落ち着かなくなったと、昨日はそんなわけで大祭やら霊祭やらで、心を神様にむけなければならない事ばっかりあったけれども尚且つ、やはり御結界に奉仕させて頂くという事が有難い 事だとゆう訳なんですよね。
これは私の想像なんですけれども、皆さんもよくいいますよね毎日お参りなさっておられる方達は、やっぱ一遍は参らんと気持ちが悪かと、だからそういう事になってまいりますと信心は、まあ宗教はアヘンだと言われても仕方がない事ですね、参らにや気色の悪かけん参る、いやそれでもおかげは受けますよね、やはり参らにや気色の悪かけん参るというのも、それは参らんよりはよかです、心を神様に向けてくるのですから、けれども昨日博道先生がいっておるのは、そういうような事ではなかったように思うのです、いうならば御結界に座らせて頂くとこれはまあ誰でもそうだと思うのですけれども、まず自分自身がハッキリ分かってくるのです、ここえ座ると、不思議な所ですそれが楽しいですそれが有難いです。
有難いなあという、いよいよ有難うならせて頂くかというと、いよいよあいすまんことだなあ、こんな事ではと自分自身が段々分かってくる。結局ここえ座ったらね、きよまらなければおられないのですよ、ここには、そういう清まらせる働きがあるです、金光大神の、、、、そうすると自分の心が清まったり静になったりするから、自分の心がハッキリ分かってくる、自分の心が汚れておったり、濁っておったんでは、又心が暗かったんでは、その心の中すらが分からない、信心の光が心の中に灯ると今まで気がつかなかったようなところが気がつかせて頂くようになる。
清まって参りますと、それこそ自分の底の底まで見えれる心の状態というのが頂けれる、それを自分で見極めが出来る。わびるところはわびさしてもらう、礼をいうところは、お礼を申させて頂く、そういう心の状態に私はなれるというか、まあ例えていうなら時計なら時計がです、毎日標準時計に合わせてゆかなければ、いつの間にか遅れたり進んだりしておる、そのような状態が自分の心の中にです、御結界に奉仕をさせて頂く事によつて、キチット合わせる事が出来る、それが有難いと言おうとしておるのじゃないだろうかと思うた、昨日博道先生が話ておるのを聞いて。
だから皆さんの場合だってそうです、参らにや気色の悪かとゆうような所からです、段々お参りをさせて頂くことによって、自分の心の調子というか、間違っておるところを改めさしてもらい、おかげを受けておる事は、気もつかなかったところに気付かせて頂いて、いよいよ深井広い意味においてのお礼が出来れる、それが尊いのである、それが有難い、それが私はそんなら、お道の教師が御結界を大事にする所以であり、まあ皆さんが、お広前お広前とお広前に通うて見えるのはそういう事でなければならないと思う。だからどこを標準とするか、どこを焦点にするかという事になるので御座います。
昨日、午後の奉仕をさせて頂いております時に竹内先生達が親子でお参りになった。それで御取次させて頂きましてから、いつも必ず朝の御理解を頂いて帰られるのですけれども、何か、昨日それができなかつたのでしよう、先生何か一言、御理解を頂きたいと、こういわれるのです。それで私は最近の合楽の信心の方向というものを、色々とお話しさせて頂いた、最近いよいよ募らせて頂くのは、金光教の信心によらなければ、しかもしかもその真髄に触れてゆかなければ、とても世界新の平和とか、又ここでいわれておる和賀心時代をつくるとかいつた所で自分自身がそれを頂いていなかったら駄目だと。
そのような最近の御理解をダイジェスト的に話させて頂いたら、「先生実は今頂いた通りの御理解の事がいよいよ親先生の願いが成就しだしましたよ」というて話されるんです。どういう事ですかというたら、今日車の中で大阪毎日新聞を読ませて頂いた、そしたら「地球市民運動」という運動が起こされておる。どこどこの王様どこどこの大統領、どこどこの総長もうあらゆる分野にわたった有名なしかも、世界真の平和を心から、祈っておられる、願っておられる人達ばかりが、百名ばかり、そういう運動を展開しょうという事になった。
というそれを切り抜いてきましたから、これをご覧下さいという訳です、地球市民運動というのである。尚有難いと思わせて頂くことは二人選ばれておられる、それが一人は広島の市長さん原爆の洗礼をうけられたということらしいですね、一人はねい泉尾の三宅先生、もう私はそれ聞いてから本当に竹内先生いよいよ私共の願いが成就していく一つの足掛かりができとような気がしますね、というて喜び合った事でした。
皆さんも御承知でしょうけれども、三宅先生は教団からはちょっと異端視される向きがありますがね、もう本当に金光教を引っ提げて、いうなら世界真の平和運動に望みたいという願いをいつも持っておられ、年に何回か世界中回られて、その事に一生懸命なっておられる先生なんです、本当に有難い、そのことを私は昨日夜の御祈念に最後のお礼を申し上げる時にお礼申させて頂いとりましたら、御心眼に月琴という楽器があります、丸いさおの所が短くてね、その月琴を頂くです。
月琴とゆう事は、まあ字からいうてもね、太陽を天地の親神さまと表現するなら、人間氏子が月と頂いてもいいと思います。私共自体には何の力もない、何の光もない、けれどもやはりその太陽の反射を受けて、月でもそれこそ昼を欺くような、満月の夜等はそういう明るい夜になれる、それでも月自体に光がある訳ではない、太陽の光をまともに受けて、だからここでいわれておるところの和賀心というかね、丸い円満な心という、私共はその丸い心の状態になればなる程、神さまのいうなら光を受ける、人間であるならば、それこそ仏さまのような人、神さまのような人というところまで、お陰頂いていける、それは自分の心がいよいよ円満にならなければならない。
ところがいつも自分の心は、暮れの闇である、迷いである、悩みである、苦しみである、本当にこの世は苦の世苦の世界だと思われるかにある、それが一度信心によって、自分のこころが少し明るくなってくる、三日月さん程度に心が明るくなってくれば、三日月さん程度の明るさ、それがいよいよ円満な度合いをまして参りますに従っていよいよ明るいおかげが受けられる。月の夜の昼のようなおかげが受けられるとゆう事になるのです。わが心が神さまに向かうとゆうのは、そういう事だと私は思うです。
そういう意味だろうと思う、まん丸い楽器で月琴、ところがそれが調子があってない、それを一生懸命、調子を合わせておるという感じであった、だからその調子を合わせるという事は、今合楽で言われておる、信心によらなければ、調子は合わないということ、どんなに世界中の人達がです、戦争はいけない、世の中が濁っていく事を防ごうというてもです、まず人間自身の心の中にです、いうなら和賀心を目指させてもらえれる内容が頂けない限り、どんなに人間の力、知恵をもってそれを防ごうとしても防ぐ事が出来る事ではない。
銘々が円満な心、丸い心和賀心を持って当たる時に、いわゆる、神さまの光をまともに受けて光る、光の世界というか、明るい世界というものが頂けるようにです、何というてもやはり心の時代、しかも心の時代がここでいわれておる、和賀心時代を創るという、そういう願いが私は神さまの願いであると思う、それをまず合楽で私共一人一人が和賀心を目指さしてもろうて、日々信心の稽古をさしてもろうて、その和賀心に伴うところの光、和賀心に頂けれるところの、いうならおかげをです、私共がまず受けなければならない。
今日私は皆さんに聞いて頂きたいのはね、博道先生が日に一回は御結界に奉仕しなければ、落ち着かないとゆう私共がね、日一回でもよいから私の心の状態はどのようになっておるだろうか、心が真っ暗でありはしないか、ただ三日月さん程度でありはしないか、本気で和賀心を目指させて頂いておるかどうかという事をです、確かめ日々の御教えによって、それを修正すると言うか、改めてと言うか日に一回はそういう気持ちにならせて頂ける、お繰り合わせを頂きたい。
ただ参らな気色が悪かけんんで参りよると、それはそれでもおかげは受けますよ、御取次を頂いてあるですから、こうですからとお願いをして帰られればやはりおかげを受けますけれども、ただそれではおかげが有難いというだけです。
だからおかげが有難いというのは、もうその場限りですのど元通れば暑さ忘れるおかげなんです、自分の願いが成就したといったような事では、そこで私共はです、もうそれこそ願はんでも頂ける心生神金光大神天地金乃神一心に願おかげは和賀心にありと、和賀心にあるところのおかげ、為にはですね、どうでも焦点が和賀心に置かなければならない、日々お参りさせて頂いておる、その自分の心、いうなら和賀心に精進しなければ真実人間の幸せとゆうのはもう絶対ありえないんだとまず分かる事だと思う。どんなに頭がようても、知恵があっても腕があっても、どんなに財産を例えば築いても、それは苦労の種にこそなれ、幸せのいわば薬の種なはならないという事。
私共がいわゆる人間一人一人が、例えばそれがです世界中の氏子にです、和賀心になってしまわにやならんとゆうのじゃない、それは目指しですけれども、けれどもね、人間が幸せとゆうのは、この和賀心にあるんだと分からせて頂く、又それを分かってもらうために、私共が立ち上がらなければならない、世界中の人達が本当に人間が真の幸福とゆうものを目指させて頂いて、地球市民運動といったような運動が展開されてくる、その中心軸をなすものは、和賀心でなければならない、それをです、そんならお道の教師である所の泉尾の大変お徳を受けられた先生であります。
その先生が選ばれて、そうした地球市民運動に参加されておられるという事、そこで先生のいつもの持論であるところの、願って願って願いぬいてという最高の信心ですけれども、その内容をなすものはです願う事も有難い願わあければならない、願わなければ又神さまもお喜び下さらない、願って願って願いぬく事は有難いけれども、その願う内容が今、合楽でいわれてあるところの信心でなからなければならない。そんなら私がいっておる信心が泉尾の先生の信心の中に入らせて頂ける一つの手掛かりがね何かできていくような気がするのです。
そしてそれが、いわゆる私がいつもいう世界の市場に出される時です、様々な商品が出されるでしょう、真の平和はこうでなからにゃならん、ああでなからにゃならんというような議論が出て来るでしょう、その中にです、いよいよその核心であり中心にならなければならないのは心であり、しかもただ心いうておるだけではいけない、その心が和賀心を目指さなければ、和らぎ賀ぶ心を目指さなければ、人間の真の幸せはありえないんだと分かってもらうために和賀心学をどうでも完成しなえればならない。
合楽で説かれてきた二十幾年間の御教えは全部が一つの和賀心になるんだと確信しておる、いつの日か必ず合楽で説いてきた事がです、そういういうなら晴れの舞台に、どうでも合楽の御教えを合楽の御理解を頂かねばならない時代がくるだろうと私は思う。それにはまず合楽に直接御神縁を頂いておる私達の信心焦点が、そこになからなければならない、なかなかそれは難しい事、いつも自分の心が和ぎ賀び、どちらえ転んでも有難いなあ有難いなあといっておれれる心の状態とゆうものは、やはり稽古をした上にも稽古させてもらわねばおられないのですけれども、日々お参りをさしてもらうお話を頂いてです。
自分の心が今どのような方向を向かっておるかとゆう事をです、確かめさせて頂う為にお日参りが続くならばいよいよ有難い事になる、いわゆるそうゆう方向に向かっておれば絶対おかげが頂ける、和賀心になってしまわなければならないとゆうのじゃない、人間の本当の幸せは、この和賀心にあるんだと、まず分からなければならない、そしてそれを体験しなければならない、その和賀心と体験とを引っ提げて世界の市場に望まなければならない。ならばこれをあらゆる角度から教祖が説かれた御教えの全てがです、それを説き明かす事の出来れる充分なものをその内容に持っておるとゆう事が有難いと思う、昨日、私は私がお話したような事がたまたまそのような事であった。
それを聞かれた竹内先生が先生、実は今日車の中でといわれるのもやっぱりその事であった。これは親先生いよいよ親先生の願いがね世界に表されるような感じがするとこういうのである、私もそれを有難いと思うた神さまにお礼を申させて頂いた、そしたらその月琴のお知らせであった。だからその調子を合わせれるのは私は合楽だと思う、それが合楽で20何年間説きに説かせて頂いたその御教えだと思うです。どうゆうような場合にはこうゆう生き方こうゆうような時にはと、しかもそれが一つも難しい事ではない、その気になればもう誰でもが守れたり行じれたり出来れる内容の御教えである、和賀心にならせて頂く為の全てである。
そんな思いで下がらせて頂きましたら、丁度高芝さんがテレビを見ておられた、私も見るとはなしに見とったら丁度子供の時間番組があっておった、学校の先生が小さい子供達を前に何かお話をしておられるところであった、その話がね何とそうゆう話でした。どうゆう話かというと星の中では地球に人間が住んでおると、どこにもそういうのが色々あってから漫画に出て来るどこの衛生人とかよくあるでしょう、だからあった方が他の星からきた人達と話をする時に、あんたは何処ですかと、聞かれた時に私は日本人ですといわれたっちや、向こうには通用せんという話でした。
そんならどういうたらいいですか、私は地球人ですといわなきやいけませんというて女の先生がいよんなさる、もう何から何までつながっているのを感じましたね、昨日ばかりは、私共はやはり日本人というより地球人でなからなければならないという事なんです、もう世界は一つです、そしてその世界中が幸せになっていく、そのポイントになるところ核心になるところはもう和賀心だと、人間が和賀心を目指さなければ、人間の真の幸せとゆうのはないんだと分かって、それを学問的にも義務的に教育いただける時代にならなければ、和賀心時代にはならない。
それは千年かかるか万年かかるかわかりません、けれどもこれだけはもう絶対の事なんだ、それでそんなら私共が今申しております、そんなら合楽に御神縁を頂いておる人達がです、その所を本当に人間が幸せの核心になるものは、和賀心であるその和賀心をいよいよ目指させて頂くのだ、そしてそこに生まれてくる、体験を引っ提げて世界の市場にだそうというのである。成程、自分が和賀心の状態にある時人間は一番幸せな時なんだ、どういう中にあっても有難い、たとえ難儀の中にあつても、和賀心を持ってすると、それは有難いもつたいないことになってくるのです。
そういう種をまかせて頂くのが楽は苦の種苦は楽の種というけれども、苦労の中にでも、有難いものを和賀心を持ってそれが感じられそれが見られるそういう種をまいていくなら、その苦労の種は楽な種になるが、その楽な種が又、苦の種になるような事は絶対ない、一般にいわれておる楽は苦の種、そんなら楽にならんほうがよかような感じさえする、けれどもそれが確かに私共の上に長い歴史を振り返ってみても、栄枯盛衰は世の習いということになつておる。
確かに苦は楽の種であり、楽は苦の種になっておるけれども金光大神が教えられる事はです、どこまでも家繁盛子孫繁盛の道なのだ、楽の種をまいて楽の芽がでて楽の葉がでて楽の花が咲いて楽の実が実らないはずがない、だから皆ないつておる楽の種というのは本当の楽の種ではないのだということ、楽の種というのは教祖金光大神が教えられる、その道を行じて生まれて来るところの楽の種をです、まかせていただいて、かく楽になれるんだかくおかげがいただかれるんだ、その元になるものは和賀心だとゆうことをです、自分の周囲周辺に広げていく、それが世界中に広がってゆく、何でもそこには手掛かりとゆうものがなければできません縁がなければ成就いたしません、それが世界中に呼びかけられる、そういうものができれるものができてきたような思いがするんです。
地球市民運動、ここに人類の為の金光大神、金光様の信心する者だけの金光大神じゃなくて、総人類がです、生神金光大神あってはじめて私共が真の幸せになれる道がわかったと、神からも氏子からも両方からの恩人はこの方金光大神であるとおっしやる、その事が世界中の人間氏子から、そういう声が聞かれ思われる時代を創っていかねばならない、そういう責任が私共は、特に合楽に御神縁を頂いている人達はそういう願いを持って信心をいよいよ進めて行きたいと思うですね。
どうぞ